プラハサーカスフェスティバル滞在記

2019年の5月に参加したキエフのサーカスフェスティバル「ザラトーイ・カシュターン」で、同じ審査員だったチェコのフェルディナンド・カイザーから、2020年2月1日・2日にプラハで行われる『CIRKUS CIRKUS』というフェスティバルに審査員として招待したい、という嬉しい連絡をもらったのは2019年12月の年末。ギリギリまでスケジュールなどの詳細がはっきりしなかったこともあって、1月27日に航空券を買って1月30日に日本を発つ、というバタバタスケジュールでプラハ行きが決まっていった。

この記事を書いた人

辻卓也

株式会社アフタークラウディカンパニー勤務。サーカスプロデューサー。ロシアやウクライナ、東欧などからサーカスアーティストの招聘が比較的多い。その他、ショウの演出やフライヤーデザインなどを行うことも。長身

〜 暖かいプラハ 〜

1月30日(木)

成田空港からアエロフロートでモスクワ経由でプラハに向かう。成田空港でお土産を物色していると、新型肺炎COVID-19の影響で、空港にいる人たちのほとんど、欧米人らしき人たちまでが珍しくマスクをしているのに気づく。雪の降るモスクワのシェレメチェボ空港に着くと、着陸してから機体から降りるまで1時間くらいかかったのに加えて、空港は恐ろしい広さで、再度行われるセキュリティチェックやパスポートコントロールでは、利用者に対してそれに対応するスタッフの数が圧倒的に足りない。ギリギリの時間でプラハ行きの飛行機に向かうバスに乗り込み、夜、プラハ空港に到着。フェスティバルが用意してくれた迎えのハイヤーに乗り込み、プラハ7区にあるBELVEDEREというホテルに着くと、刺青だらけの親切なレセプションのお兄さんが迎えてくれたのだが、私が30日から宿泊というのがフェスからホテルに伝わっていなかったみたいで、フェルディナンドの娘のクララに電話してホテルに説明してもらったりして、23時頃になんとかチェックイン。ホテルは歯ブラシとスリッパがないこと以外は快適で、持参した服をハンガーにかけて、ホテルの近所の華僑がやっているキオスクで念願のチェコビールと軽食を買って、寝酒を飲んで就寝。チェコは一人当たりのビールの消費量が世界一で、ビール好きにはたまらない国。

1月31日(金)

この日は午後からサーカス場に行く予定で、午前中は近所の郵便局で、4年前に私の家にホームステイをしていたチェコの学生に、彼女の子供の誕生日用に甚平と蕎麦猪口を送り、その後、美しい旧市街を散策する。中央広場からカレル橋、プラハ城という定番ルート。前回私がプラハに来たのは2001年の12月で、東欧の冬は-10度以下でとても寒かった記憶があるのだが、今回は連日10度を超える暖かさ。異常気象だ。ホテルに一度戻り、徒歩で10分ほどの場所にあるサーカス会場レトナ公園に向かう。

フェステント入口

アイススケートリンクの向かいにあるレトナ公園の広場にサーカステントが建っているものの、まだあまり準備が整っていない感じだった。入り口の看板を他のスタッフと一緒に立てている屈強な男性はパオロ・カイザー。数年前に静岡にも来たことがあるローラーボーラーのアーティストで、私を呼んでくれたフェルディナンドの息子である。私の顔を見て「フェルディナンドが中で待ってるよ!」と声をかけてくれた。
サーカス場はフェスティバルのリハーサルの真っ最中。しばらくしてこのフェスのプログラム・ディレクターを務めるフェルディナンドを見つけて抱擁。「よく来てくれた!なにもかも遅れてるんだ!」と普段穏やかな彼が少し興奮気味に話している。これまで情報がなかなか届かなかったことを考えても想像がつく。この「CIRKUS CIRKUS」というフェスティバルは今回で5回目のフェスティバルなのだが、最後の開催が2013年。ここ何年かは資金難で開催ができなかった。今回は800人規模のテントを使って行っているが、前回までは2,000人規模の巨大なテントで、番組数も多かったという。参加国はチェコ、メキシコ、スペイン、イギリス、フランス、ウクライナの6カ国で14のプログラム。政府からは何も援助は受けていない。それでも久しぶりに開催できたのは良かったね、と話すと、来年はもっと大きな規模で開催したい、とフェルディナンドが力強く話す。お土産に「いままで飲んだことがないよ」という日本酒を渡した。

フェルディナンド・カイザーと

サーカス場をしばらく見たあとに、ウクライナから来ている鉄棒のイーゴリ・ベイバックのグループに会う。このグループは2020年3月からリトルワールドで働いてもらうグループで、日本を発つ数日前に、このグループとプラハで会えることがわかっていた。このグループはフェスの最後の番組なので、リハまで少しのあいだ春からの日本での仕事についての話ができた。また、何人かの出演アーティストが声をかけてきてくれた。「日本で仕事をしたいんだ」と熱心に売り込んでくる人も。
リハを眺めていたが、最後のフィナーレのリハは、何カ国語が飛び交っていたかわからない。1人のスタッフがしきりにいろいろな言語を使って指示をしている。どこもショウの作り方はあまり変わらないなあと思うが、時間に追われた現場で通訳を介していたらタイムラグが生じてうまく伝わらないだろう。ウクライナのバレエの女の子が最初にでてきて、アーティストがあとから登場する。お客さんをいかに盛り上げるか、をポイントにセレモニーを作っていく。

20時頃にリハが終わり到着している審査員一向で旧市街に夕食を食べに行くことになった。テントから一緒に行くメンバーはドイツで古くから存在するBush Roland Cirkusのディレクター、フィリップ・ガイアー・ブッシュ、そのパートナーでロシア出身のユリア、スペインのAlbaceteのフェスのディレクター、アントニオ・アルヴァレス、など。パオロが車で旧市街のチェコ料理レストランCafé Svatého Václavaに車で向かう。1968年のプラハの春、1989年のビロード革命の時に、デモ隊が集まったヴァーツラフ広場に面したレストランで、多くの観光客で賑わっていた。到着するとすでに他の審査員や関係者がたくさん来ていてお互いが旧交を温めていた。ヨーロッパの伝統的なサーカスの世界は、濃厚な関係の中で相互に助け合って成り立っている空気を感じる。フィナーレを仕切っていたスタッフが途中から訪れた。彼はこのフェスの総合ディレクターで、フェルディナンドの甥、アルトゥール・カイザー。また、Bush Rolandのフィリップも本名はカイザーで、パウロとアルトゥールの従兄弟だという。チェコのサーカスはほとんどがファミリーで、その親戚たちがヨーロッパ中に散らばって独自の助け合いの世界を作っている。アントニオがディレクターを勤めているAlbaceteのフェスティバルは円形の舞台が作れる美しい劇場のフェスティバルで、私が知っているアーティストも何人か出ているようだ。他にもイタリアから来ているクラウンや、スウェーデンのサーカスのディレクターなど、パートナーがチェコ人であったり、チェコのサーカス社会に関わりのある人たちが多く集まっている。こういう場に参加すると英語はあまり頼れる存在ではなく、チェコ語以外ではドイツ語、フランス語、スペイン語が会話の中心となる。旧東側では英語とロシア語なら、ロシア語を話しているサーカス関係者が多い。この日は24時頃ホテルに戻る。

〜 サーカスと動物とフェスティバル ~

2月1日(土)

フェスの1日目、12時にサーカス会場に向かい、サーカステントに入るとすぐに、キエフのサーカスの前総裁リュドミラ・シェフチェンコとリヴォフのサーカスのロマン・ズドレニュークと再会する。彼らは去年の5月にキエフの「ゴールデン・カシュターン」で同じ審査員としてお世話になった人たちで、再会を祝し、スタッフの控え室兼宴会場の同じテーブルに座る。控え室には次々といろいろなサーカスの関係者が訪れる。リトルワールドの「フィンランドサーカス」の時に日本に来ていた、サーカス・フィンランディアのディレクター、カーレ・イェレンストロンも審査員として来ていたので挨拶をする。

トラディショナルなサーカスの関係者が集まると、やはり話題になるのは欧州の動物芸の今後について、である。ついにキエフのサーカスも2021年いっぱいで動物芸をやめなくてはならない。だれかが動物を引き取ってくれるわけでもないし、集客にも大きく影響するし、これから本当に大変だという。ある国のトラディショナルなサーカスのディレクターが現れたので、私たちの会社はあなたの国の、あるコンテンポラリーなサーカスと仕事をしたことがある、とそのカンパニー名を伝えると、最初そのディレクターは怪訝な顔をして何度もそのサーカスの名前を聞き返すので、私の発音が悪いせいだと思って名前を紙に書くと「ああ、あれはサーカスじゃないわ」と言う。面食らってこんどはこちらが怪訝な顔をしていると「だって動物がいないもの」と。こういったコメントはこの人に限ったことではなく、チェコに滞在中トラディショナルなサーカスで生きる人たちからこの言葉を二度三度耳にした。一方でコンテンポラリーなサーカスのフェスがプラハであっても、トラディショナルなサーカスの人はあまり見に行っていなかったようだ。以前、コンテンポラリーサーカスのヨーロッパのネットワーク組織「シルコストラーダ」のメンバーが大勢日本に来たとき、メンバーの何人かと話をした。コンテンポラリーなサーカスも好きだけど、私が仕事で関わるサーカスの大半はトラディショナルなサーカス側である、という話をした時、彼らは彼らでトラディショナルなサーカスに対して、あまり良い感情を抱いていなかったように見えた。サーカスから動物が消えていくことは、今の世の流れからすれば後戻りはできないところにあり、あとはどのくらい時間をかけて、ということしかないだろう。ただそれにしても、この明らかな溝に感じる寂しさは、サーカスがあらゆるものを包括して存在する、という、それらしき幻想的なイメージを、私が勝手に遠い過去から引っ張り出しているだけなのだ、ということを思い知らされる。馬を含めたあらゆる動物がサーカスからいなくなった時、サーカスリングは直径13メートルの円形である必然はなくなり、多くのサーカスが円形舞台を止めるかもしれない。何も隠しおおせない円形舞台に魅了される私は、それが心配でならない。

フェスのチラシ 表
フェスのチラシ 裏

たくさんの審査員がヨーロッパ各地から集まる。やっと全員揃った時点で、アルトゥールが採点方法についてチェコ語で話をして、パオロがドイツ語とスペイン語でその通訳をする。このあとでフェルディナンドが「わかった?」と聞きに来てくれたので「わからない」と答えると、ロシア語で説明をしてくれる。あまりロシア語がわからない私は、まあ、なんとなくわかったかな、というノリで、いざ、客席の最前列に座り、ショウと審査が始まる。
男女のリングマスターの司会進行で、最初はメキシコのジャグラーからスタート。前半で7演目が行われる。印象に残ったアクトは、チェコのアントニオ・ナブラチルによる「ワシントン・トラペーズ」とエミール・ファルッティーニによる「ラダー」のアクトである。エミールは1990代にリトルワールドのヨーロッパサーカスで来日したことがあり、その当時はまだ子供だった。今は、親子で家族に伝わる芸を引き継ぎながら、主にアメリカで働いている。

フェスのオープニング

中休みに控え室で用意されているビュッフェを食べて、後半が始まる。後半で印象に残っているのは、前半シーソーでネタをやっていたチェコのサーカス一家の一つ、ウルフ姓の2人によるコメディ。前半のシーソーのネタはそれほど面白いと思わなかったのだが、ブランコのネタは本当に面白かった。大男と小男というクラシックな関係性のコメディが秀逸の番組だった。後半で印象的だったのは、チェコのケリーとアンジェリカという女性デュオによる噛む力で2人の体を支える「ティース・ストラップ」、同じくチェコのアラン・サルクによる「バウンシング・ボール」、そして最後のウクライナのベイバックチームによる「鉄棒」の演技である。

イーゴリ・ベイバックグループの鉄棒

第一回目の公演が終わって、控え室で採点。最初全演目に点数をつけていたのだが、一位から五位を決めて、5点〜1点で計算して欲しい、とのことだった。審査員特別賞はある演目にしようかと思ったが、他の審査員と被ってしまうので、「ワシントン・トラピーズ」のナブラチルに渡すことにした。
この日二回目の公演は審査もないので、リラックスした雰囲気で始まる。最初に大量の紙テープを舞台上に飛ばしたせいで、オープニング後にショウが中断。パオロたちが必死で清掃する姿を見て、また大盛り上がりとなった。最後の演目が終わる前に審査員は全員裏側に回りセレモニーの準備をする。とは言ってもセレモニーは事前に何もリハーサルもなく、授賞式が始まるとチェコ語の進行の中で、突然私の名前が呼ばれたので、サーカスリンクに駆けつけるものの、段取りがあまりうまくいってないようで、結局一度引っ込んでまた外で待機。しばらくしてまた名前を呼ばれて審査員特別賞をアントニオに渡す。金賞はバウンシング・ボールのアラン・サルクが受賞した。セレモニーの後に控え室で宴会が始まり、出演者、スタッフ、審査員がごったがえす。何人かと歓談して、24時頃宿舎に戻る。

〜 嬉しい再会 〜

2月2日(日)

当初この日にフェスの最終日である日曜日に審査があると思っていたのだが、昨日審査員の仕事は終わってしまったので、午後のフェスの最後の公演の時間まで、メトロ、トラムの24時間乗り放題のチケットを買って、プラハ市内のハヴェルスカー市場やマサリク駅などを見学。今回とにかく便利だと実感したのがGoogle Mapを使ったメトロとトラムの乗り換え案内だ。市内のどこにいても行きたい場所やホテルまで、現在時刻からの乗り継ぎを瞬時に教えてくれる。その便利さに驚きながら、結局逆方向の電車に乗ってしまったりするのが、テクノロジーを使う人間の不完全なところ。その後14時のフェスの公演をもう一度見に行く。今回会場となったテントはチェコのBerousek家のテントで、4本マストのシンプルなものだけど、見やすくてとても居心地の良いテントだ。LED照明も物足りない感じはなく臨場感に溢れ、アーティストが美しく見える。この日も満員。公演後にフェルディナンドとクララに招いてもらったお礼を述べると、「来年はもっと良いフェスになるから、また来てくれ」と嬉しい言葉をもらう。

2月3日(月)

昨晩スイスで仕事を終えて夜中700kmの道のりを寝ずに運転してプラハに戻ってきてくれた、ディミトリ・スタウベルトが朝の7時30分にホテルに迎えに来てくれた。ディミトリは2004年に初めてリトルワールドでACCと仕事をして、その後、北海道、兵庫、福岡などで、2004年、2005年、2015年と一緒に仕事をした仲だ。2015年の春まではお姉さんと、2015年の夏から姪と仕事をしているパーチのアーティスト。彼の演技がいかに力強いかは、2018年のモンテカルロで銀賞を獲った事実が何よりも物語っている。プラハでディミトリに会えずに帰るのは心残りだったので、駆けつけてくれたのがとても嬉しかった。ディミトリは家に寄る前にまず、旧東側時代にチェコの国立サーカスだった建物に案内してくれた。
1997年までサーカス場として使っていたが、今では博物館になっていて自由に出入りできる場所ではないが、7代続くサーカスファミリーのディミトリにとって、この辺りは子供時代の遊び場だったという。施設の目の前には鉄道の線路が走っていて、そこから貨物車に舞台道具や動物を入れて、旧ソ連圏に鉄道でツアーに出かけた。
(写真とキャプション:旧チェコ国立サーカスだった建物)

旧チェコ国立サーカスだった建物

彼の話を聞いていると、アーティストはたくさんいながらも、チェコのサーカスの世界は狭く、多くのファミリーは親戚付き合いで助け合いながら存続している。今回はスイスの仕事の関係で参加できなかったが、「CIRKUS CIRKUS」も、普段は運転手をしたりいろいろ手伝っているらしい。「モンテカルロの後に何か生活は変わった?」と聞くと、にっこり笑って数年先まで忙しくなった、と。やはりモンテカルロはアーティストの生活を変えるようだ。
プラハ4区の閑静な住宅街にあるスタウベルト家は、庭にパーチの練習装置、リメイクした濃紺の巨大なトラック、将来自分のサーカスでカフェに使いたい、と言っているコンテナなどを見せてもらう。家に入ると、姉のエンリカ、姪のナンシー、そしてお母さんのメディナが歓迎してくれた。メディナは代々続くサーカス一家スティプカ家出身のパーチの支えるアーティストだった。エンリカ、ディミトリ、ナンシーにサーカス芸を叩き込んだ彼女は80歳を超える今でも矍鑠としている。彼女はソ連時代に来日経験もあり、90年代にACCがカナダのサーカスをプロデュースする前に宝塚にも来たことがあるという。彼らが受賞したさまざまなトロフィーを見せてもらい、朝ごはんを食べながらフェスティバルのこと、今のサーカスの潮流について、いろいろな話ができて楽しかった。

スタウベルと一家と

彼らにとっても動物が出てこないサーカスは、これまでのサーカスとまったく違うものだ、という認識がある。ディミトリは相変わらず穏やかで、とても居心地の良い時間を過ごさせてくれた。彼は酒を飲まないので、日本から持ってきた日本酒をメディナに渡し、お返しに梨で作ったウォッカをいただく。
空港までディミトリに送ってもらって、そこでお別れ。次にプラハに行けるのはいつだろうか。いずれにしても、この広いようで狭いサーカスの世界での繋がりを、これからも大切にして行きた

この記事を書いた人

辻卓也

株式会社アフタークラウディカンパニー勤務。サーカスプロデューサー。ロシアやウクライナ、東欧などからサーカスアーティストの招聘が比較的多い。その他、ショウの演出やフライヤーデザインなどを行うことも。長身