キエフ・フェスティバル滞在記 2019年5月27日〜6月4日




キエフの国立サーカスで毎年行われる、若い世代のサーカスフェスティバル『ザラトーイ・カシュターン』に審査員として参加してきました。10歳にも見たない子供たちが大人顔負けの素晴らしい演技をすることに心底驚かされながら、このウクライナという国のサーカスアートの奥深さを感じることができる1週間でした。番外編もご覧下さい。

この記事を書いたひと;辻 卓也

株式会社アフタークラウディカンパニー勤務。サーカスプロデューサー。ロシアやウクライナ、東欧などからサーカスアーティストの招聘が比較的多い。その他、ショウの演出やフライヤーデザインなどを行うことも。長身。

 今年の2月に久しぶりにジーマ(ディミトリー・トゥルキエフ)からメッセンジャーで連絡をもらった。彼とは2005年にルスツリゾートと姫路セントラルパークで、サーカスをプロデュースする際にデュオの空中ストラップで参加してもらった以来の付き合いで、彼と一緒に仕事ができたのはこの一度きりだけなのだが、その後、彼が同じストラップの番組でドゥ・ソレイユ の『CORTEO』のアーティストとして日本に来た時に、公演に招待をしてくれたり、一緒に飲みに行ったり、当時のサーカス文化の会の会合にCORTEOのアーティストたちを連れてきてくれたり交流が続いた。いろいろな話をした中に、将来の夢という話の中で、「象と生活をしたい」と彼が言っていたのをよく覚えている。

2005年、前列右がジーマ、後列左が著者

 ウズベキスタン生まれのウクライナ人の彼は、最近はドイツで働くことが多いようで、最近では演出の仕事もいろいろと手がけている。メッセンジャーでは5月末にキエフの国立サーカスで開かれる若いアーティストたちのサーカスフェスティバル「 Золотой Каштан」(ザラトーイ・カシュターン *金の栗という意味)<http://fest.circus.kiev.ua>に、審査員として来ないか?という誘いだった。私はフェス審査員の経験はなく迷った部分もあったのだが、頻繁にあるチャンスではなかろうし、何よりも一緒に働いたアーティストがフェスティバルに私を推薦してくれた、ということが嬉しかったので引き受けることにした。キエフは2000年と2005年以来、14年ぶり3度目。

5月27日(月)

時間がなかったので成田空港で小分けにできるお土産を買い込んで、トルコ航空の夜遅い便で出発。イスタンブール経由なのだが、イスタンブールの大統領肝煎りの新しい空港は散策する気にもならないほど馬鹿でかいものだった。数時間のトランジットでキエフに朝の9時頃に到着。

キエフ空港

5月28日(火)

空港に迎えにきてくれたキエフ国立サーカスのスタッフの車でキエフ市街へ。渋滞を避けるためにかなりぶっ飛ばされたので怖かった。ホテルに着くと、フェス審査員コーディネーターのマリーナがロビーで到着したばかりの中国チームの世話をしていたところだった。マリーナから更新された審査員の予定表をもらうが、かなりタイトなスケジュールだ。荷物をホテルに置いて一緒に国立サーカスに向かう。マリーナはアーティストとして二回、日本に来たことがあるという。1980〜90年代にかけて、夫と息子とジャグリングや皿回しの芸を経て、その後は動物の芸を長年やってきた。キエフの国立サーカスでこれから行われるレギュラーショウは、彼女の息子がイリュージョニストとして、ポスターの真ん中に掲載されている。サーカス一家である。

ホテルの窓から見えるキエフ国立サーカス

ホテルから目と鼻の先にあるサーカス場の近くにくると、ぷーんと、サーカス場独特の匂いが漂う。動物の匂いだ。サーカス場ではフェスの場当たりリハーサルの最中で、最初にキエフ国立サーカスの前総裁リュドミラ・シェフチェンコに挨拶をする。皆からマダムと呼ばれているリュドミラと亡くなった夫のウラジーミルは、ソ連時代からの有名な猛獣使いのアーティストで、多い時は21頭のライオンとショウをしていたという。リュドミラの前はウラジーミルがキエフのサーカスの総裁を勤めていた。サーカスのオフィスでリュドミラにシェフチェンコ夫妻の立派な写真集「клетка для двоих」をもらう。

シェフチェンコ夫妻の写真集

また、2014年に日本で一緒に仕事をした対面式ロシアンスイングのディディック親子に会うことができた。父セルゲイは対面式のロシアンスイングを初めて行ったアーティストだ。息子のジェーニャが父の後を継いでリーダーとなって、現在キエフのサーカス場で行われているレギュラーショウのトリの演目として、この恐ろしい演目を率いている。サーカスの世界は広いようで狭いのでサーカスをやっているところに行けば、誰かしらとこうして旧交を暖めることができるのが嬉しい。正午をすぎてチェックインできる時間になったので、ホテルに戻ってやっと荷解きをする。

到着日の午後はオフだったので、荷解きをして近所のスーパーで買い物をした後に、夕方に昨年一昨年と日本で一緒に仕事をしたジャグラーのルスラン・フォメンコと会う。近くのグルジア料理店でグルジアビールと58度もするチャチャを飲んで食事をしながら、今のキエフのサーカスの状況や、大統領が変わった後のウクライナの近況などを聞く。レストランを出てキエフの中心地の独立広場(通称マイダン)の方まで歩いて行き、途中でルスランと別れる。2014年、多数の死傷者がでたウクライナ騒乱の中心地だったマイダンは、現在もその時のモニュメントが立ち並ぶものの、現在は穏やかで市民達の憩いの場に戻っている。ヨーロッパには必ずこういう市民がリラックスできる広場が都市の中心部にあって、それはとても有意義なことだと思う。広場があればすぐに建造物を作り、広場からベンチを撤去したり、たとえベンチがあっても、最近では嫌味な手すりをわざわざベンチの中心に設えて、人がベンチで横たわれないようにする、弱者を排除する日本の冷たい行政を省みる。

キエフ独立広場 マイダン

マイダンで休んでいると、少し離れたところにウィスキーのボトルを持って泥酔した若者がいて、私のことをちらちら見ている。困ったなあと思っていたら、その若者は意を決して、私のところにやってきて自己紹介をしながら、「キノ(ソ連時代の有名なロックバンド)はいいぞ。君はビクトル・ツォイに似てるな!」と言いながら、ウィスキーを飲もうと誘ってきた。ツォイは韓国系のロシア人なので、アジア人の私を見てそう思ったのだろう。悪い人ではなさそうなのだが、あまりに酔っ払っている若者だったので、謝ってその場を立ち去る。背後から「プラスチーチェ(ごめんなさい)」という彼の気落ちした声が聞こえた。少し悪いことをしたかな、とも思いながら初日から見知らぬ若者と一緒に泥酔するわけにもいかないので、日が沈まない21時過ぎのキエフ市街を歩いてホテルにもどる。

5月29日(水)

中国の湖南省長沙から来ているフェス参加チームと一緒に、午前中キエフの「サーカスとヴァラエテーアート公立学校」(通称サーカスアカデミー)KYIV MUNICIPAL ACADEMY OF CIRCUS AND VARIATY ARTSを訪問する。最初にサーカスのクラスへ行くと、去年まで沢入にいて現在はこちらの先生に復帰したナージャ先生はこの日はおやすみだったのだが、過去にリトルワールドやルスツリゾートなどで一緒に仕事をし、ドゥ・ソレイユの「OVO」にも空中ロープで出演していたジーマ(ディミトリ・オーレル)が、教師として働いていて再会を祝う。

ディミトリ・オーレルと

今日はアカデミーのガラショウがサーカス場であるので、普段の三分の一程度の生徒しか練習をしてないとのことだったが、たくさんの生徒が練習をしているように見えた。アカデミーは芸能全般の学校なので、サーカス以外にも歌やパントマイム、クラウニング、ダンスを習っている生徒達がいる。全体で400人くらいの生徒、その中でサーカスを勉強しているのが150人くらい。サーカスを教える先生は10人くらいで、ジャグリング、空中芸、アクロバット、などそれぞれの専門の先生がいる。ウクライナ国籍以外の生徒達もいて、現在はフィンランド、アラスカ、ドイツ、メキシコから生徒が来ている。その子達が集まっていたので挨拶をしに行くと、フィンランドから来ているミハエラという女の子が、春のリトルワールドに来ている「フィンランドサーカス」のメンバーとヘルシンキのサーカス学校で同級生だった、とのこと。サーカスの世界は狭いねえ、と皆で笑う。

サーカス学校構内
サーカスアカデミー外観

サーカス学校にはオンラインで申し込みをしたそうで、キエフのサーカス学校は有名だし、自分たちを高めてくれる、と思って申し込んだそうだ。素直で前向きな彼らを見て、どこも経済的に大変だけど、サーカスの未来は決して暗いわけではないよね、とジーマと話す。ジーマの他にこの日はアイスダンス出身の先生、そして長年多くのアーティストを育ててきたジャグリングの先生もいた。サーカスクラスを見終えて、次はサーカス以外のクラスを教えている建物に行く。

こちらは2005年に場所を移転したそうで、前に来た時と場所が違っていて、最初どこに着いたのかわからなかった。鉄道のキエフ駅の近くにあるわりと新しい建物。最初に訪ねた歌の教室では私たち訪問者に、女の子2人が美しい歌を披露してくれた。マイムの部屋では、フォー・マティックスという最近キエフで売り出している4人のグループと、在校生がいろいろなショウを見せてくれた。皆しなやかで体がよく動く。マイムの先生はどこかで見覚えがあると思ったら、2000年に五人囃子と学校を訪れた時に授業に参加させてくれて面倒を見てくれた、ナターリア先生がまだ現役で教えていたのだった。ネット上に残っている五人囃子とナターリア先生が一緒の写真を見せたら、思い出したようでとても驚いていた。「20年前はこんなに若かったのよ」と言って、皆に嬉しそうに写真をみせていた。

2000年 五人囃子と当時の在校生と

ホテルにもどって、15:30にロビーに集合。マリーナがすでに迎えに来てくれていて、続々と他の審査員達が集合。各国で行われるサーカスフェスの審査員は重複していることが多いので、お互い顔見知りのメンバー多い。他の審査員の多くは、フランス、スペイン、イタリア、チェコなどのサーカスフェスティバルや、国立サーカスのディレクターだったり、各国のサーカス協会などの仕事をしている人が多い。

皆でサーカス場のカフェで昼食。食事をしていると、国立サーカスの新しい総裁のコルニネンコ氏が登場。彼は5月の総裁選挙の前までは、サーカスアカデミーの校長をしていた人である。17時頃に昼食が終わってしばらく休憩したのち、サーカス場の席に座ると、ミミクリーチや五人囃子の演出家で、五人囃子ツアーで初めてウクライナに行った時に、いろいろ世話をしてもらったクリューコフ夫妻が目の前に現れ、久しぶりに挨拶をすることができた。

フェスのポスター

サーカスアカデミーのガラショウ「Circus Academy 2019」が始まる。

このショウは毎年、行われているサーカスアカデミーを挙げてのショウで、サーカスだけでなく歌やダンス、マイムなどのアカデミーの様々なジャンルのアーティストが、在校生を中心に出演する。今年の演出は2005年に静岡にも来たことがある「サーカス・ビンゴ」の演出家、イリーナ・ゲルマンによるもの。サーカス、歌、踊りなどが交互に目まぐるしく演じられるショウは、エネルギッシュで、バーレスクな感じの美しさが、ビンゴに似たイメージを喚起させたが、魅力的なショウだった。

ガラショウのポスター
Circus Academy 2019のフィナーレ

サーカスが終わると、客席で2002年のフール祭に参加した女性クラウンのタミラに出会う。現在の彼女は、サーカスで三人組のクラウンの番組を作っていたり、映画で女優の仕事もしている。他には何人も初対面のアーティストたちが自己紹介をしてくれて、そして売り込みを受ける。外に止めてあった車まで連れて行かれてDVDを見せてくれた人もいた。その後は、サーカス場の貴賓席控室での宴会に参加する。クリューコフ夫妻にサーカス資料館に彼らが植えた桜が大きくなった写真を見せると、目を細めて懐かしそうに喜んでいた。スペインの Gironaという町で行われている大きなフェス『Festival Internacional del Circ Elefant d’Or』のディレクター、デニス・マタボッシュと話をしていると、今まで一緒に働いたことのある多くのアーティストがそのフェスに参加していた。彼がフェスに参加させたいアーティストの演技をネットで確認するために動画を検索すると、よくリトルワールドのショウの動画に行き当たるらしく、彼はリトルワールドのショウはユニークでとても好きだと言う、嬉しい言葉。昼間サーカスアカデミーを案内してくれたサーカスの歴史の先生や、他の審査員のメンバー、その他、いろいろな国からエージェントやプロデューサーがゲストとしてフェスティバルを訪れていた。宴会に参加していた人たちと交流をして、22時頃にホテルに引き上げる。

5月30日(木)

7時に起きてホテルの朝食を食べる。ウクライナ料理の多くはハーブのディルの香りがして美味しい。今日はフェスの1日目なのだが、その前に午前10:00からサーカス場で、サーカスアカデミーの卒業生による卒業試験が行われる。始まる前にナージャ先生に会えたのでご挨拶。各国からサーカスのプロデューサーやエージェントが見に来ているこの日は、サーカスアカデミーにとってとても大事な日で、ドレスアップしているナージャ先生はスマートで若々しく見える。他にもジーマやクリューコフ夫妻を含め、学校関係者がたくさん顔を見せていた。これまで何度も日本で一緒に仕事をしたパーチのヴィクトル・ヤーロフの娘、ジアーナにも会うことができた。

卒業試験公演は最初にナージャ先生の教え子の空中リングから始まる。シンプルで力強いアクトだった。他にもリングの吊り点とリングの両側3点にスイベルがついて、自在にリングが回転する空中リングや、麺状の細かい細いロープを使ったものや、あまり見たことのない新しい道具を使った演目が多かった。サーカスの道具も進化している。全部で16演目、試験に出ていた多くのアーティストが昨日のガラショウに出ていたし、卒業試験公演とはいえ、すぐにも大きなサーカスで働いて遜色のない演目ばかりだった。

卒業公演のフィナーレ
卒業公演のパンフレット

卒業公演を2時間くらい見て、フェス前の審査員ミーティングの前に少し雑談。ラトビアのロリータ・リピンスカとは、政府の文化支援の方向性について。ソフトではなくハードにお金をつぎ込みがちなのは、どこの政府も似たような話を聞く。ハンガリーからはジャグラーのクリスチャン・クリストフ。彼はティム・バートンのディズニー映画「ダンボ」に登場するサーカス団をプロデュースし、劇中のサーカスシーンを作るのに重要な役割を果たしていて、映画にカメオでも出演をしている。おまけにリトルワールドの番組編成で何度も相談に乗ってもらったことがあるアーティストの従兄弟でもあった。相変わらず狭い世界である。ジャグラーがミスを減らすには、どうしたら良いか?という質問をしたら、彼はいくつか興味深い話をしてくれた。また、チェコから来ているフェルディナンド・カイザーは、チェコのサーカスフェスティバルのディレクターで、話をしてみると知っているアーティストの父親だったりする。現在チェコには23のサーカスがあり、どれもがフェミリーサーカスだという。義妹が日本人で、矢野サーカスで働いていたらしい。

ミーティングでは、最初に審査員長を決めるのだが、立候補者はいないので昨年同様、ピーター・ダビンスキーが審査員長を務めることになった。ロシア出身で今はアメリカでプロダクション会社を経営している彼は、現在のサーカス界でかなりの有名人で、様々なサーカスフェスティバルの審査員を務めている。そのダビンスキーが審査方法の説明を始める。審査方法は技術点と芸術点がそれぞれ10点満点で、トータル20点満点で採点をする。フェスティバル出演者は9歳まで、10歳から13歳まで、14歳から17歳まで、18歳から25歳までと、4つのカテゴリーに分かれている。それぞれゴールド、シルバー、ブロンズの賞を決めて、最後にカテゴリーを超えて、1組だけグランプリを決める。それ以外は審査員がそれぞれ特別賞を決めて良いとのこと。特別賞はあげてもあげなくても良いのだが、特別賞をあげる場合は記念品を渡すことになる。記念品はなんでも良い、とのことだがそういうわけにもいかない。日本を出る前に知っていれば、と悩む。

サーカスへ向かう地下道は花屋がひしめく

16時からフェスティバル初日、プログラムAの開幕。サーカス場には、2004年と2008年に日本で一緒に働いたトランポブラザーズのパーシャとエレーナが来ていた。パーシャとは逸話がいっぱいあって、彼のチームメイトが兵庫県での仕事で、帰国の数日前に大金とパスポートを落として、それが無事に警察に届いていた話とか、私が犬山から東京に帰るときに、2kgの鉄アレイを私のリュックサックに忍びこませたりしたジョーク好きの男だ。2人とも元気そうで、エレーナは演出家として成功を収めている。ショウが始まる間際に審査員席に座る。最初に登場したのは9歳以下のカテゴリーから、小さな女の子のいきなり強烈な空中ストラップから始まった。私は次々に登場する子供達のレベルの高い演技に唖然としながら、採点を続ける。相対的に評価をする必要があるので、しばらく採点を進めてまた最初の方を訂正したりなかなか神経を使う。フェスティバルの参加者は多くはウクライナ国内のアーティストだが、他にも、スイス、中国、エジプト、ドイツ、ベラルーシ、エチオピア、そしてクリミアからも参加者がいる国際フェスティバルだ。前半12演目でひときわ場内を席巻したのは10-13歳のカテゴリーの、ウクライナの2人の男の子によるデュオ・ハンドスタンドだった。細い身体から繰り出される驚きの力技、エレガントなシンクロ、隙のない演出、サーカス場全体から感嘆のため息が聞こえてくるようだった。そのあとに女性アーティストが演じたエディット・ピアフの曲を使った空中ロープも印象的だった。休憩を挟んで、後半13演目も印象的な演技が続く。ディミトリー・トゥルキエフが演出した18−25歳のエチオピアのイカリアンゲームや、サーカスアカデミーに在校している14-17歳の女性のハンドスタンドが玄人受けする素晴らしい演目だった。

審査員席から

それにしても印象的だったのは、本当に小さな子供達が素晴らしい演技をすること。10代や9歳未満の子に至るまで、なぜこれほどのアクトができるのだろう。キエフのサーカスアカデミーはもちろん素晴らしいのだけど、そのアカデミーに入る以前に子供たちが通う、個人が経営しているサーカス学校やスタジオがウクライナ各地にたくさんあり、そこがとても大切な役割を果たしている。日々、小さな子供たちを励ましモチベーションを育てながら、忍耐強く芸を教える先生たち。今回のフェスではウクライナから40組のプログラムが参加していて、ウクライナ国内の13のスタジオ、6つのスクールからアーティストたちが参加している。私はいつも、ウクライナのサーカスアーティストたちを見て、その体の強靭さとバランスの良さ、作品に対する美学に感心してきた。今回もその奥深さとウクライナのサーカスアートの層の厚さに改めて衝撃を受けている。

そしてサーカスを観に来る観客も、リラックスしていて本当に楽しそうである。プログラムの前半の途中、バウンシングボールの演技で、演技台の脚が折れて演技を続けられず、悪態をついて楽屋に帰ってしまった演技者がいた。もちろん褒められた態度ではなく採点はできない。場内はざわついていたが、後半に急遽、演技台の脚を全部外して再び登場し、最後まで演技をやり遂げた。観客は拍手喝采。若い演技者の失敗に対する温かい眼差しが印象的だった。

フェスのパンフの1ページ

フェス1日目の25演目が終わり貴賓席控え室に移って、漢数字でメモしていた得点をアラビア数字に書き直して点数を提出用の清書用紙に書き込む。*出演者の詳細と写真はこちら( http://fest.circus.kiev.ua/uchasniki-2019/

初日打ち上げのような宴会では、審査員の1人、ベラルーシ国立サーカスの総裁ウラジーミル・シャバンがウォッカを持ってきていて、久しぶりにウォッカをたくさん飲まされた。最近ウクライナやロシアの若いアーティストたちは、ウォッカを飲む人が少なくなったけど、やはりソ連時代からサーカスに関わっているサーカス人たちは、ウォッカを飲める人がいると「ナーシュ・チェラベック(私たちの人間、意訳すると俺たちサイドの仲間、という感じか)」と言って、たいそう喜ぶ。とはいえ明日もあるし、最近二日酔いからの回復の衰えを自覚しているので、なるべく自制しながら22時くらいに退出。フェスの初日が明けて、宴の最後の方は新しいコルニエンコ総裁がとても饒舌な宴会だった。

5月31日(金)

フェスの二日目は12時から始まる。午前中、ホテルの部屋のコンセントがショートしてしまってテレビが映らなくなっていたので、レセプションに言いに行くと、しばらくしてソ連時代から働いているような電気技師さんが現れて、ちゃっちゃっと簡単に治してしまった。お昼前にサーカス場の貴賓室で今日の予定とミーティング。昨日ウォッカを飲んだウラジーミル・シャバンからサーカスのパンフレットをもらう。ミンスクの国立サーカスは最近建物を新しくしたばかりで、まるでフラム(宮殿)のように美しい。ベラルーシはロシアやウクライナほどサーカスアーティストが多いわけではないが、過去何人かと仕事をしたこともあり、優秀なアーティストも数多くいる。

ミンスクサーカスのパンフレットの1ページ

フェスの二日目、プログラムBが始まる。金曜日の昼ということもあって、昨日よりも観客の数が若干少ない。そんな中でも若いアーティストたちの渾身の演技は、鬼気迫るものがあり、なかでも、チェルニヒウという街のサーカススタジオで練習を重ねている9歳未満の男女デュオのアクロバットや、リボフのサーカス学校在学の10~13歳の男女のデュオストラップ、ミンスクの女性デュオのトラピーズなどが出色だった。最後に出演したのが中国深圳市から来ていた中国のパーチのグループ。技術も大変高いものだったが、運び込んだ装置や人数などの規模も、他を上回るものだった。フェスの中休み中、ナージャ先生とタミラと話をする。それぞれの演目について自分の感想を述べると、そうよねえ、彼らもそれから彼らもよかったわよねえ、と話が弾む。趣味や趣向はそれぞれあるけれど、力強い演技というのは、誰にも強い印象を与える。すべてのプログラムが終わって、遅いお昼ご飯を食べてから貴賓室でポイントの集計を行う。匿名の採点結果表を渡されて、誰が受賞者かを決める。四つのカテゴリーを元に、ゴールドが1名、シルバーが2名、ブロンズが2名、という塩梅で、その上にもう一つグランプリを決める。そのあとで特別賞を決めるのだが、この特別賞は審査員が好きに決めて良いもので、審査員がトロフィーではなく自分で選んだ記念品を渡す。私は悩んだ挙句、エディット・ピアフの曲で空中ストラップを演じたハリコフのサーカス学校の女性アーティストに特別賞を送ることにした。誰もが知っているクラシックな曲でとても力強く美しい演技をしていた。記念品は日本からお土産用に持ってきた扇子とハンカチを包装して準備した。18時過ぎにサーカス場に戻り、キエフのサーカスの期間レギュラー公演「The Secrets of the Emerald City」の公演を見る。犬ありハリネズミあり、アリーゲーターあり、途中ダンスや生歌が挟まれるが、観客を選ばない現代に合わせた伝統サーカス、という感じがとてもよかった。このショウにはディディックたち以外にも、2014年にルスツで一緒に仕事をしたアレクセイ・グリロフとマリーナ・グラヴァトスキフの空中リングのデュオが出演していた。こういう機会にふと再会できるのがサーカスの楽しいところである。その後サーカスの貴賓室で夕飯を食べて、22時頃ホテルに帰る。

『The Secret of the Emerald Cityのフィナーレ』

6月1日(土)

9時にサーカス場のそばのカフェで集合して、午前中はサーカスがドニエプル川の遊覧観光に連れて行ってくれた。朝、サーカス場で待っていると、若い女性がつかつかと寄ってきて「何も食べていないの」とお金を要求してきた。前回来た15年前に比べて、今のキエフはいたるところでクレジットカードは使えるし、街が綺麗になった気がしていた矢先、今回初めての出来事。気の毒だったが足早に立ち去る。小型バスでドニエプル川まで行き、カシュタンという名前の遊覧船で、19年ぶりにこの大河をゆっくり眺める機会を得た。サーカスの関係者に新しいウクライナの大統領のことを聞くと、まあ、あくまで個人的な意見として、という前置きの後、期待はしているけどまずこれからを見てみないとわからない、と言う。ロシア寄り欧州寄りとこれまでいろいろな大統領がいたけれど、今、一番大切なのはロシアとの関係を修復することだと思う。ウクライナは東西地域で、ロシア寄り、ヨーロッパ寄りと言われているけど、要するにそれは主にどちらとビジネスをしているか、ということが大きくて、この国のサーカスの世界はヨーロッパ側についても、正直それほど良いことがあるわけではない。ウクライナのサーカスはロシアのサーカスと密接に結びついている。だから私たちにとって関係を修復することが急務であり、前の大統領はそれができなくて、皆ほとほとうんざりしてしまっていて、国民の70%以上の人が新しい大統領を望んでいた。だからまあこれから、ですね、と。いろいろな意見があると思うが、ロシア、ウクライナ両方のサーカスアーティストと仕事をしている中で、私はこの意見に共感できた。私が知る限りではあるけれど、私たちと日本でサーカスアーティスト同士が仕事をしている中で、軽いジョークは別として、政治のことで険悪になることはあまりなかったと思う。サーカスは多国籍チームで、アーティストの口からよく聞くのは、政治は政治、サーカスはサーカスである、と。そういう言葉をアーティストから聞くとき、単に政治に興味がない時もあるし、愚かな政治家たちよりも私たちのほうが皆と上手くやっていけるのだ、という自負が込められている時もある。とは言っても、2014年のキエフのマイダンを始めクリミアの問題やウクライナ東部で、あれほどの衝突があってしばらくは、私たちが手がけるような規模のサーカスの現場や宴席でさえ、張り詰めた空気になったり、見えない溝ができたりしたことが、なかったわけではない。

ドニエプル川にて
授賞式にて

船の宴会場でお昼ご飯。リボフのサーカスから来ている審査員の1人ロマン・ズドレニュークが、日本人がウォッカを飲んだら急にロシア語を喋り始めるから、つくづく驚いたよ、と話しかけてきた。あなたも酒を飲んだら日本語を話せますよ、と返すと目を丸くしながら笑っていた。ホテルに戻って、酒の小瓶を持って、マダム・シェフチェンコをはじめ、お世話になったキエフのサーカス関係者に土産を渡す。

夕方から、フェスで良い成績を収めたアーティストがメインで、他にもアカデミーで作品を見せてくれたフォー・マティックスや、何人かのキエフのサーカスアーティストが代わる代わる出演するガラショウを見た。このガラが終わるとフェスに参加したすべてのサーカスアーティストがサーカスリンクに出てきて、このタイミングで審査員は客席から裏に足早に回る。

授賞式は最初に特別賞からスタート。特別賞は賞状とかがあるわけではなく、審査員が好きなものを渡す。この特別賞は出演したアーティストに限らず、参加アーティストの先生やフェスを支えているスタッフに送られることもある自由な賞だ。特別賞のあとの受賞式はブロンズから始まるのだが、これもプレゼンターがいきなり呼ばれて、ディプロマと像を渡す。

段取りをまったく打ち合わせしていなかったので、数回あるプレゼンターのうち、最初の自分の回をすっぽかしてしまった。ショウの段取り以外の進行は基本的におおらかなものである。9組のブロンズ、7組のシルバー、5組のゴールドが授与され、グランプリは中国の最後に行ったパーチの演目となった。

受賞式が終わると、サーカス場でそれぞれ記念写真。参加していた若いアーティストや、審査員同士でも写真をたくさん撮り和やかなムード。その後、宴会場でサーカスの食堂スタッフが提供してくれた料理で、フェス関係者との宴会をして、23時頃にホテルに戻る。フェスの審査員をはじめとするスタッフとはここでお別れとなった。

授賞式にて、審査員とゲストの記念写真

6月2日(日)

この日はフェスが組んでいた予定がなくなったので、1日オフになる。トランポブラザーズのパヴェルが、キエフ郊外の彼の家に招待してくれた。パヴェルはキエフ中心地から空港方面へ40分くらい車で向かった自然に囲まれた閑静な住宅街に住んでいる。ウクライナは自然のある場所が本当に美しい。近くには湖があって、夕暮れ時の美しさは言葉にできないほど、印象画に出てくる風景そのものという感じだった。パヴェルのチームメイトのコーリャも来ていて、一緒に湖で泳いで、ビリヤードをして、奥さんのエレーナの料理を食べて、結局、泊めてもらうことになった。なんとも心地よい休日を過ごさせてもらった。

Pavel宅にて

<番外編>

6月3日(月)

朝5時に起きて、パヴェルに6時にホテルに着くよう送ってもらう。7時に朝食を摂って、鉄道のバグザール駅の向こう側の集合地点に向かう。日本からネットで申し込んだチェルノブイリ原発ツアーのバスがすでに到着していた。日帰りツアーの代金は100ドルほど。ツアー会社の人にパスポートを見せて、予約金以外の残金を支払う。世界各国からたくさんの観光客が乗り込んでいた。キエフ市内からチェルノブイリまでは、北にバスで90分くらいの道のり。近いものである。道すがら見える景色は、小麦畑を中心とした典型的なウクライナの美しい平原地帯で、この一見なんのこともないような景色にいつも魅了される。日本からサーカス村所有のベラルーシ製のシンチレーション(放射線測定器)を持って行ったのだけど、道行く途中の放射線数値は上がる様子はない。キエフ市内は場所にもよるがだいたい0.03〜0.1マイクロシーベルト毎時(μSv/h)。場所によって東京より少し高いくらいだが、さして問題のある数値ではないと思う。バスが市内を出発するときの集合場所の空間線量は0.05μSv/hほどだった。

平原地帯を抜けると、いよいよ原発から30km以内の立ち入り禁止区域(ゾーン)に入るための検問所がある。ここで全員が一度バスから降りて、検問所のガードマンにパスポートと顔写真を照合してもらわなくてはならない。

ゾーン入口検問所のキオスク

ウクライナはチェルノブイリを観光地として積極的に観光客を集める方向に向かっているが、ゾーンに入るためのセキュリティは厳重である。検問所にはキヨスクが二軒あって、チェルノブイリツアーのお土産や、水やコーヒー、アイスクリームなどが売っている。暑いのでここで水を購入。ここでの空間線量は0.05μSv/hほどで、東京とあまり変わらないくらいである。他の会社のツアーもあったので、小一時間くらい経って、やっと検問所を抜けることができた。最初に廃墟となった村を見学する。もう本当にただの廃墟で、ボロボロになった家屋や商店などが痛ましい。

廃墟の家屋
OTHレーダー「ドゥーガ」

空間線量は0.1〜0.14μSv/hくらいで、少しづつ数値が上がってきた。観光地化したわりには、廃墟家屋に柵などを設けているわけではなく、廃墟の中にずんずん入って行っても問題ない「ゆるい」ところが、らしいところ。30分くらい散策をして、次はソ連時代に建てられた、馬鹿でかい巨大なアンテナを見に行く。高さ150m、長さ500mの超巨大OTHレーダー「ドゥーガ」。

1976年から稼働したもので、ミサイル防衛などに役立ったものだったそうだ。原発事故の影響で1989年に稼働をやめて、ただ廃墟として巨大な鉄の構造物だけが残る。その圧倒的な大きさと自然と静寂に包まれたこの一帯は映画『マッドマックス』のような終末的な世界が広がっている。この辺りの空間線量も廃墟の村とさほど変わりない程度だった。

OTHレーダーの後、廃墟になった有名な保育園へと続く。ここの地面の線量は急に高くなっていて、シンチレーションを地面に近づけると、けたたましくアラームがなり、4〜10μSv/hを表示し始めた。チェルノブイリに入って、初めて緊張感のある線量数値になった。保育園の中には、二段ベッドに人形やボロボロの絵本が置いてあったり、ちょっといかにもな感じではあるけど、とても寂しい空間だった。人形達は観光客が置いていった、という話もある。

次に訪れるのが、事故を起こした4号機のある発電所へ。事故の後、石棺で覆われていた4号機は石棺の耐久年数が過ぎたので、現在はかまぼこ型のシェルタードームに覆われている。そのシェルタードームの前で私たちは記念写真を撮り、原発の建物に隣接した建物内にある「ダイニング・チェルノブイリNo.19」という原発労働者用のレストランで炭水化物多めの昼食を食べる。なんだかとても妙な気分だ。4号機の周りの空間線量は場所にもよるが1μSv/h前後だった。たった1日とはいえ、こういう数値を高く感じ始めなくなっている自分の感覚も怖い。食堂ではポーランドから来ているジャーナリストと一緒になったので、私が知っている限りの福島の原発の現状について話をする。

廃墟の保育園
4号機前にて

この後は廃墟の都市プリピャチへ。発電所から4kmほどのこの町は、原発労働者とその家族約5万人が住んでいた。ソ連時代特有の集合団地、スーパー、学校、ホテル、競技場、病院、劇場ほか遊園地などの娯楽施設が揃ったこのプリピャチは、コンクリートで作られた町であるが、いたるところから草木が生え、部分的に森と化している。打ち捨てられた町は、鳥の声とツアー客が持ち込んだガイガーカウンターの警告音が聞こえる以外は、映画『ストーカー』の世界のような、圧倒的な静けさが印象的だった。無人となった建造物と人間の営みとは別の時間が流れている静寂からは人の業の深さとはかなさを感じさせる。原発事故で開園前に廃墟となった遊園地では、観覧車のボックスの底に、90μSv/hを超えるホットスポットがあり、観光客が順番でカウンターを近づけ目を見合わせる。30年経ってもやはりそういうところは残っている。

プリピャチ市内
開園直前に廃墟となった遊園地

その後プリピャチを出て、キエフに戻る途中で、消防士達のモニュメントに立ち寄る。事故直後に、吹き飛んだ炉心の残骸が残る建屋内に入って、消火活動をした消防士を讃えるモニュメントなのだが、何も知らされずに国の命令で多量の放射線を浴びて命を落とした、気の毒な消防士達を祭り上げて英雄視するモニュメントに対して、私はどうしても共感する気になれなかった。犠牲者を祭り上げることで、本当に責任を取らねばならぬ者たちの存在が曖昧になる、そんな気がしてならないからだ。19時頃にキエフに戻る。やはりどこかしら緊張したままの1日のツアーが終わり、くたくたになった。このツアーでは最後に自分が今日1日に浴びた放射線量を教えてくれて、総量で3μSvとのことだった。高度が安定した国際線の飛行機に1時間乗って浴びる放射線量に等しい。

観覧車のカゴの下、強烈なホットスポット

原発事故から30年以上が経って、周囲の放射線量がある程度下がったとはいえ、あのチェルノブイリを観光地として積極的に観光客を受け入れているこの国の方針は、何を意味しているのだろう。チェルノブイリ後のウクライナは、現在4箇所の原発で発電を続けていて、国内発電総量の50%を原子力に頼っている。その大きな理由の一つは、天然資源を豊富に備えているロシアへの長年のエネルギー依存から脱して、エネルギーの自給率を維持する必要性が大きいという。現在のゾーンの線量は想像していたよりは高くなかった、とも言えるし、それでもやはり高いとも言える。チェルノブイリの現在をあえて開示するという、啓蒙を目的としたツアーは国が推奨していて、事故に対する割り切ったドライな距離を感じた。チェルノブイリの事故は私が小学生の時だった。当時のNHK特集を含むテレビのドキュメンタリー番組は、子供にとってはおどろおどろしい演出が多く、無人の廃墟となった不気味な報道映像が強く脳裏に焼き付いていた私にとって、福島の原発事故が起こるまでは、自分がチェルノブイリのゾーンに立ち入るなどということは、想像だにしなかった。18歳以上で健康な人間であれば、だれでも参加できるこのツアーは、私にとって貴重な体験となった。

ひるがえって同じ問題を抱えているこの国はどうなのだろう。3.11当事の東電の責任者たちの責任を問う裁判では、地裁で無罪判決が下されて世界中に報道されたばかりだ。いつまでたっても責任と向き合えない私たち。一時期、日本でも一部の知識人たちによる「福島第一原発観光地化計画」という提言があって、不謹慎だという反対意見がその提言を覆い尽くしたことがあった。チェルノブイリよりもまだまだ生々しい進行形である福島で、物理的にも心理的にもハードルが高いのかもしれないが、でも、責任者が責任を取らず、報道も減り、事故の記憶や汚染に向き合うことがストレスで、事故そのものが風化していくのであれば、より多くの人が事故そのものを触れる新たな機会を設けることで、教訓をつないでいくしかないのではないか、という気もしている。 

帰国して後日、アメリカの放送局HBOが作成した「チェルノブイリ」というドラマが世界的に評判になっていたので、インターネットの配信でそれを見た。とてもリアルで、示唆に富んだ、骨太なドラマだった。事故当時どれほどの無茶が行われていたのか、高線量被曝が人体に何をもたらすか、次々と労働者が亡くなっていく克明な様子など、ショッキングな映像も多く含まれているが、まだ見ていない人には、ぜひお勧めしたい。

キエフからチェルノブイリへ向かう道すがらの景色

6月4日(火)

最終日は夜の飛行機だったので、お土産などを買って日中を過ごす。五人囃子と来た時以来の市内の場所にも行ってみたが、様変わりをしていた。町というのは変わるものだ。サーカスのスタッフに空港まで送ってもらい、イスタンブール経由で帰国する。

世界各国の経済状況や環境の変化で、あまりサーカスにまつわる良いニュースを聞くことが少ないけれど、若いサーカスアーティストたちからサーカスの明るい未来を感じることができた。

この記事を書いたひと;辻 卓也

株式会社アフタークラウディカンパニー勤務。サーカスプロデューサー。ロシアやウクライナ、東欧などからサーカスアーティストの招聘が比較的多い。その他、ショウの演出やフライヤーデザインなどを行うことも。長身。

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