モンゴルサーカス訪問記「ダルハン市のションホードイサーカス団」


◆弊社が25年以上前より交流を続けているモンゴルサーカスの人々。2018年~2019年の年末年始にモンゴルに渡り2週間ほど滞在して、複数の団体や教室を訪ねてまいりました。彼・彼女らとの会話や活動を通して、モンゴルに生きるサーカスの人々の「今」をお伝えします。

この記事を書いたひと;長屋 あゆみ

㈱アフタークラウディカンパニー勤務。ウェブサイト担当です。サーカスについてわかりやすくお伝えいたします。

首都ウランバートルより北へ約230km。モンゴル第三の都市と呼ばれるダルハン・オール県のダルハン市(人口約12万人)のサーカス団を訪れました。午前8時、ウランバートルから車で出発。メーターパネルの外気温はずっとマイナス30度と表示され続けています。マイナス30度以下は測れないようです。車窓には内側からビッシリと氷が張り、運転手が目視できるのはフロントの、それも半分のみという状態でした。休憩時に車から降りると、すぐにまつげや眉毛の水分が凍り出し、手足がしびれて動かなくなってくるので3分間も外にいられない、そんな厳しい寒さのなか、車は進みます。

2018年12月中旬。モンゴルからNPO法人国際サーカス村協会のウェブサイトを通じて、一通の問い合わせメールが届きました。「そちらのサーカス学校に、モンゴルからの入学は可能でしょうか?」。

モンゴルには専門的なサーカスの育成団体がいくつもあるというのに、どうしてわざわざ日本のサーカス学校に?

疑問を感じながら返信すると、彼女は「自分は首都に住んでいるのだけれど、子どもたちのサーカス団がウランバートルから200km離れたダルハンというところにあります。見学もできます」とのこと。何やらよくわからないやり取りですが、首都から200km以上離れた地でサーカスを行っているという団体に大きな興味を持ちました。年末年始をモンゴルで過ごす予定だった私は、見学させてほしいと申し出ました。
ヒシゲーさんというそのモンゴル人女性は、日本語の通訳の仕事をしているとのこと。彼女がなぜ連絡をくれたのか、ダルハンのサーカス団とはどんな団体なのか、そしてサーカス団と彼女の関わりもよくわからないまま連絡を取り合い、12月26日、ウランバートルで彼女と合流して車で3時間。ダルハン市内の青年劇場に到着しました。
「ションホードイサーカス団」はこちらの建物内の一室を練習場として使っています。

中に入って階段を上り、細い廊下を渡った奥に、練習部屋はありました。練習部屋に入ると…。

広さは50㎡ほど。天井もさほど高くはない中に、衣装、道具、子どもたちの荷物、コントーションテーブルが置かれていました。そこで様々な芸の練習を、20名ほどがひしめきあいながら行っていました。バウンスボールやクラブジャグリングの練習をする男の子たちのすぐ傍らでローラーボーラーを5段積み重ねている男の子、そして幼い女の子たち10人ほどがコントーションの練習をしていました。

こちらの部屋だけでは間に合わないため、劇場内の廊下部分などを使ってアクロバットやグループジャグリング、バンキンなどの練習をしていました。

「ションホードイサーカス団」代表のトゥムル氏(下写真、右)。奥様はバトツェツェグ(左)さん。おふたりが、ションホードイサーカス団の歴史を話してくださいました。

 

↑NHK WORLD JAPAN “A Circus of Street Kids : Mongolia” 番組より

「私たちは若い頃、サーカス学校を卒業した後、ヨーロッパに渡ってあちこちのサーカスを回っていました。1990年ごろ、モンゴルが社会主義から民主主義に移行した時期はヨーロッパにいたので、自分の国で起こっていること、変化を知らずに、2005年に帰国したとき、貧しい子どもたちが多くいることを目の当たりにし、衝撃を受けました。ウランバートルから実家のダルハンに帰るために汽車に乗っていたとき、ご飯を食べていたら、ヨレヨレの服を着た子どもがひとり来て、『すみません、ごはんを分けてもらえませんか』と言いました。どうぞ、と分けてあげるとその子は『友達も連れてきていいですか』と言うのです。いいよ、と答えると5、6人くらいの同じような格好の子どもたちが現れました。私たちは、汽車が停車しているときにその子どもたち全員を連れて外へ出て、食堂に入り、子どもたちにご飯を食べさせました。みんな、すごい勢いで食べていました。とてもお腹を空かせていたようでした。『一体何日食べていないの』と聞くと『もう一週間くらいほとんど何も食べてない』とのことでした。
衝撃を受けました。ヨーロッパへ行っている間に、自分の国はなんて貧しくなってしまったのだと悲しくなりました。私たちには息子がいるのですが、自分の子どもと同じくらいの子どもたちがこんなに貧しく、お腹を空かせているなんて…。私たちがヨーロッパへ渡る以前、社会主義の時代にこういう子どもたちを目にしたことはありませんでした。自分の子どももこうなっていたかもしれないと思うと、見過ごすことはできませんでした。夫と私は、子どもたちの支援をしようと決意しました。私たちはサーカスの人間だから、子どもたちにサーカスを教えてあげよう、と。実は、ヨーロッパの仕事は次の契約が決まっていたのですが、私は自分の国をなんとかしないといけないと思い、ヨーロッパの方を断りました。契約を結んだ後だったので、罰金を支払うことになりましたよ。」
サーカスを習いたいという子どもたちは、どうやって集めたのですか?と尋ねると、
「路上生活をしている子どもたちというのは、集団で生活しているものです。1ヵ所に5~10人くらいいます。だから、全員に声をかけなくても、ひとりに声をかければ同じ集団の子たちがついてきます。私たちは、子どもたちが住んでいるマンホールをいくつか回り、声をかけていきました。子どもたちはどの子もお腹を空かせていたので、まずごはんを与えました。子どもたちがやってきた最初の動機は『あそこに行けばご飯が食べられる』です。それから、着ているものが汚れていたので、洗濯機を買ってあげて、身につけるものや環境は清潔にしないといけないよ、と教えました。それから、サーカスを教え始めました。
といっても、これらのお金は私たちがヨーロッパで得た収入を貯金していた分から出していますし、子どもたちにはもちろん無償で教えていますので、サーカス専用の道具を買い揃えることなどはできません。だからはじめは、ケチャップの容器を使った手作りの道具でジャグリングの練習をしていました。今でも、ローラーボーラーはその辺に落ちていた水道管を利用していますし、フラフープなどの道具も自分たちで作って、使っています」

 

↑ケチャップ容器を使って手作りをしたジャグリング道具。練習部屋の一番高いところに飾ってありました。

 

↑捨てられていた水道管を利用し、ローラーボーラーの道具に。

私が見学に行ったとき、子どもたちはクラブやボールなど専用の道具を使ってジャグリングの練習をしていました。ケチャップの容器のジャグリング道具は、誇らしさの象徴なのか、はたまた臥薪嘗胆ということなのか、部屋の一番高いところに飾られていました。これを見たときに私はふと、ジャグリングという芸はケチャップの容器から始まったのかもしれない、という気持ちになりました。専用の道具が最初からあったわけではありません。身近にあるものをちょっぴり工夫して楽しみ、芸となっていく。これこそが源であり本物なのではないか…。
と同時に、ケチャップ容器の手作り道具を大切にしているこのサーカス団をとても愛おしく感じました。なんとかして応援しなければいけないと感じました。

「子どもたちにサーカスを教え始めると、どんどん上手くなっていきました。基礎を教えた後は、子どもたちが自らYoutubeなどの動画サイトを見ながら、新しい技や芸を覚えていきました。そうして2017年、2018年と2年続けて、海外でのショーの仕事をもらうまでになりました。モンゴルサーカス協会から『国民のサーカス』という称号を公式にもらいました。」それは「プロのサーカス団である」というお墨付きということなのだそうです。
実はこちらのサーカス団をNHK World JAPANが取り上げて、私が訪問した日の翌々日に放映開始をするというタイミングでした。その番組制作の際に通訳として関わったのがヒシゲーさんなのでした。
私が名刺を差し出し、会社の説明を始めるとすぐに、トゥムル氏の目頭が熱くなっていくのがわかりました。「弊社ではテーマパークや遊園地などの施設と、サーカスとを結ぶ業務を行っていて…」と説明していると「わかる。知ってるよ。リトルワールドだろう。よく知ってる」と話を遮ったトゥムル氏。どんどん顔が赤くなっていく彼が「私は以前、そこに出演したメンバーのひとりだ」と発言したとき、涙が静かにこぼれていきました。傍の奥様もうつむきながら必死に涙をこらえているような様子でした。「あなたたちと、ずっと連絡をとりたいと思っていたんです。私の生徒たちを、日本で公演したあの場所に連れて行ってあげたい、出演させてあげたいと思い続けてきたんです。西田さんとは実はfacebookでつながっているのですが、私は何ぶんことばがわからないのでおかしなことを言って嫌われてはいけないと思い、西田さんの投稿にイイネをするのみでした。こんな形でご縁がつながるなんて」みんな黙りました。時間が静かに、とてもゆっくり流れるのを感じました。
トゥムルさんが少し落ち着きを取り戻し「恥ずかしいところを見せてしまって申し訳ないです。今までの苦労が突然、どっと思い出されて、感傷的になってしまったようです」と言うと、ヒシゲーさんが「そうですよね。普段の生活を送っているときはどんなに苦労していてもただ過ぎていくものが、何かの引き金で一気に溢れ出てくる瞬間があるのですよね」と答えました。私は、気の効いたことを言うものだなぁと思いながら傍で黙っているだけでした。
トゥムル氏が日本で公演をしたときの写真アルバムを見せてくださいました。若いトゥムルさんの横に、社長と元上司の笑顔が収まっているのを見つけました。サーカスというのは世界中で多くの人が関わっているはずが、なんと濃厚で、世界は狭いと感じる経験を多々することでしょうか。知っている地や人の顔が次々と出てくるのです。遠い親戚の家に来たような、不思議な気分になります。

 

↑1998年、野外民族博物館「リトルーワルド」にて開催された『モンゴルサーカス』公演時の写真。土台の男性が、トゥムル氏。

その後、生徒たちの練習を見学させてもらいました。子どもたちはジャグリング、バンキン、コントーションを代わる代わる見せてくれました。男の子も女の子も、ひとりで3つも4つも芸を行っていました。「舞台上じゃなくて、こういうふうに芸を披露するっていうのは、逆に緊張しちゃうな」とはにかみながら、次はあれをやろうかこれも見せようかと自らの芸を披露してくれました。「すごいね!」と拍手をすると、「こんなの朝飯前さ」と照れていました。ちなみに練習部屋については、劇場に自分たちの活動を理解してもらい、無償で借りているのだそうです。その代わり、劇場の催しに生徒たちの出演、手伝いを要請された場合は、無償で働くという約束を結んでいるのだそうです。

ヒシゲーさんが、特にこの子のことを覚えてほしいと呼んだのは、ツェンゲル君という20代前半の男の子でした。「この子にはお父さんとお母さんがいないです。彼は幼い頃に捨てられました。家族がいない、学校に行くこともない、仕事もない。ほかに何もすることがないから、彼は毎日練習場に来て、朝から晩まで起きているときはずっと練習しているんです。毎日毎日、ずっとひとりでジャグリングをしていたら一番上手くなりました。指導者に教えられていないことも自分で調べてできるようになって、今ではグループのリーダーを務め、将来はションホードイサーカスを継ぎたいと言っています。」

 

↑7つのボールでバウンスジャグリングをするツェンゲル君。

練習部屋の奥の方でひとり黙々と練習していた子でした。彼がある日、日本に行きたいのだけれどどうすればよいのかとヒシゲーさんに声をかけてきたので、ヒシゲーさんは日本語でウェブ上を検索し、サーカス村協会のサイトを見つけたので、問い合わせをしたという経緯だったのだそうです。
気付くと、横に座っていたヒシゲーさんの頬を涙が伝っていました。「子どもたちがこんなに素晴らしい芸を披露してくれて、泣けますね。」と声をかけると、彼女は「あゆみさんも泣きますか?どこの世界でも、泣くものですか?サーカスというのは」と言いました。ヒシゲーさんは続けます。「私は今までサーカスを観て泣きたいと思ったことはなかったです。子どものときにたまに観たことがありましたが、すごいな、楽しいなと思うだけで、それ以外のことを感じたことはありませんでした。昨年からこの子たちと出会って、関わり、生い立ちや生活を知った後にこの子たちのショーを観たときに、初めて泣きました。彼らが舞台に立つと、衣装と照明でキラキラ輝いて、素晴らしい技を披露して、観客から拍手をもらいます。とても、こんなひどい生活をしてきた子とは思えないのです。気付いたら泣いていました。」

そう言いながらヒシゲーさんは、スマホに一枚の写真を映し出して、見せてくれました。何を見せられたのか、一瞬、理解ができませんでした。窓ひとつなく、天井も床も壁もコンクリートがボロボロとむき出しになっている四角い空間の隅に、汚れた便座がひとつ置いてあり、刑務所の跡地か何かだろうかという写真でした。ヒシゲーさんは「彼の部屋です」と言いました。マンホールから出た後、身寄りのないツェンゲル君は友達の家の地下に住まわせてもらっているのだそうです。「えっ、部屋って、ここに住んでいるのですか?彼が?」と私が聞くと、ヒシゲーさんはさっとスマホを伏せました。「隠しますね。子どもたちに、自分の部屋がこんなに汚いなんて知られたくない、悲しくて恥ずかしい思いをさせたくないから、この写真を見たとは言わないでください。でも、そうです、これが彼の家なんです。」私がモンゴルでコントーションを習っていた教室の子どもたちも貧しい家庭の子が多かったのですが、彼ほどではありませんでした。ゲルがあり、保護者がいました。


↑モンゴルの遊牧民の住居、ゲル。円形で、外は羊毛で覆います。ゲルということばには建物そのものを指すだけでなく「家」「家族」の意味もあります。中国語ではパオと呼ばれています。

ヒシゲーさんは、続けました。「子どもたちはみんな素直でよい子たちばかり。なんとかしてあげたいという気持ちがあります。それに、この夫婦の取り組みには敬意を表し、支援しないわけにはいかないでしょう。」
私はようやく、どんな思いでヒシゲーさんがサーカス村協会のウェブサイトを見つけて問い合わせをしてくれたのかを理解しました。「ツェンゲル君にはお金がないので、日本に行き、生活するというのは不可能だと思います。でも、彼本人の口から『日本に行ってみたい。サーカス学校はないのだろうか。』と相談を受けたとき、お金が無いから無理に決まっているでしょうと即答するのではなく、結果実現できなかったとしても、日本にはこういう学校があって学費がいくら、生活費がいくらかかるそうだよ、工面できそう?と会話をする必要があると思いました。もちろん、可能性があるのならこの若者を外に連れ出し、色々なものを見せてあげて目を開かせてあげることができたら、と願っていますが…」


記念に集合写真を撮り、練習場を後にしました。

日本に帰ってきてからも子どもたちのことが忘れられず、個人として微力であっても何か支援できることがないかと思い、ヒシゲーさんにどんなものが必要ですか、と聞いてみました。すると「食べ物」という答えが返ってきました。「子どもたちは毎日食べるものが足りていない状態です。栄養がとれていません。幼い頃から、大人の愛情を受けてこなかったので、みんな身体が小さいですし、美味しいものを食べることに慣れていません。普段食べているものは、カップラーメンか、ボールツォグ(小麦粉の生地を油で揚げたもの)です。」

この記事を書いたひと;長屋 あゆみ

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